自分に自信がなくて、人前で喋れないような私でしたが、子育ての中で沢山の人との関わりがあり子どもと一緒に成長していきました。
親も初心者だから、周りの助けを借りていいんです。
子育てには正解がない。だから、周りと比べなくていいんです。
茨城在住ー伸夫の母インタビュー
伸夫(仮名)には兄がいて、祖父、義理の妹など含めて7人で暮らしていました。
自然豊かなところで、兄の跡をちょこちょこ付いていきながら山で遊ぶのが好きでしたね。
アトピーがあり、温泉などを汲んでお風呂に入れたり食べ物に気をつけたりという悩みはありましたが、それ以外はあまり神経質にならないように育てました。
赤ちゃんの頃は夜泣きや癇癪もそれほど酷くはなかったです。 おしりトントン・・・で寝てくれました。
ただ、ミッフィーの肌がけがお気に入りでどこへ行くにもそれを持って行ってましたね。
それがないと落ち着かないらしく「めんめん」と言ってベソをかきながら探すんです(笑
真っ黒になるまで持ち歩いて、最後には小さくカットされてしまいましたが、自分の匂いがして安心するものだったのだと思います。
3,4歳くらいの頃だったと思います。
伸夫がおじいちゃんの自転車に載せられて電車の車庫を見に行ったのですが、その時に「ボーロ買うか?」と言われて「お兄ちゃんの分も」と買ってもらった時がありました。
伸夫は、他の子のように欲しい物をねだったり「買って!」と駄々をこねたりしない子どもでした。
他の子が駄々をこねているのを見て「あんな風に泣くのが嫌だ」と言っていたので、ちょっと変わってますよね。
このくらいの年だと我がままを言うことも多いでしょうが、伸夫はそういうことがない。
泣き虫でしたが、「お父さんがいない」と言って追いかけたりそんな風でした。
で、どうして「お兄ちゃんの分も」と言ったのかというと、ボーロって5個つづりになってるじゃないですか。
あれを3つ自分の分、2つをお兄ちゃんの分で分けるために買ってもらったんだって。
なにか欲しがるって言うことがなかったので、そのエピソードは今でも覚えています。
あの頃は子供会などもまだ活発で、他の子どもと触れ合う機会が多くありました。
近くに年の近い従兄弟も住んでいたのですが、特定の遊ぶ子が決まっていて、大人数で皆で遊ぶのはあまり好まなかったようです。
小学校5年生の頃、近所の子どものほっぺを叩いてしまったことがありました。
言葉で上手く伝えられなかったらしいのですが、喧嘩はそれっきりですね。
一人でコツコツ取り組む姿をよく見かけました。
外に出れば虫取りや、お団子。
家の中では積み木など、一度やりだすと集中して遊ぶ。
そんな子どもでした。
学校生活は悩みなく
小学校に入ってからも、目立ったトラブルもなく高校生まで休みなく通うことができました。
うちの地区では登校班で通学していて、40分〜50分歩いていくのですが迎えに来てもらったり、高学年では班長などもやっていたので早くから登校したり。そのお陰で遅刻せず通学できたのだと思います。
教室に入るとなかなかトイレって言えないと思うんですが、伸夫は堂々と「先生トイレに行きたいです!」と言えるタイプでした。
どうも、そのうちの何回かは座っているのが嫌で立ち上がる口実にしていたらしいのですが(笑
じっとしているより走り回っているのが好きなので、4年生からはサッカー部に入部しました。
勉強は、私から「勉強しなさい!」と強制したことはありません。
言わなくても、自分で遊ぶ時間を作るために学校で済ませてきて家で遊んでいました。
点数が良いとか悪いとかは関係なくて、いくら「勉強しなさい!」と言ってもやる子もいるしやらない子もいる。
そう思っていたので、その辺りは本人に任せていました。
少しずつ変化が現れ始めた
服はいつも組み合わせが決まっていて、同じような服を好んでいました。
これは大人になった今でも変わっていません(笑
そういえば、本人は大真面目だったのですが鼻でリコーダーを吹いていました。
真剣にやっていたので先生に怒られることはなかったようですが(笑
中学校に入ると登校班もないので、いつも遅刻でした。
時間管理が苦手で、毎朝慌てて走って登校していましたが同じ遅刻組で仲良くなったりとネガティブになることはなかったようです。
部活は走るのが好きということを生かして陸上に入りました。
足の故障でやる気を無くしてしまったこともありましたが、勉強の成績も悪くなく3年間過ぎていきました。
高校生になると、「食品科学」などに興味を持ち、自分でお年玉をためたお金でコーヒーの資格を取得したり好きなことを見つけて取り組んでいました。
当時私達両親は共働きで宅配スーパーで食材を届けてもらっていたのですが、一緒に送られてくるレシピをよく見てましたね。
グラム数や栄養素など、細かく書いてあるじゃないですか。
あれが面白かったようで、今でも取ってあります。
祖父が退職してから、みんなで食べるようにと畑を借りてじゃがいもなど育てていたのですが、そこへもよく行っていました。
自分の得意不得意が見えてきた
高校生活の中で、伸夫の中でなにか思うところがあったようで「人との関わり合いが苦手だ」とこぼしていました。
だからといって友達とはトラブルもなかったのですが、本人がストレスを感じることが多くなったのがこの頃だったのかもしれません。
それから健康栄養学科のある大学へ進学し、栄養士として調理の仕事で就職したのですが、そこで何針も縫う怪我をしてしまいました。
作業性の仕事が多く、それが伸夫にとっては難しい事だったようです。
WAIS検査を受けて発達障害で「ADHD」「ASD」だと診断された時、ショックはありませんでした。
逆に「こういうのがあるんだなぁ~、私も受けてみたいなぁ」と思いました(笑
受け止めてくれる人を作る
発達障害と診断されて、分かってよかったと思っています。
自分の得意不得意が分かることによって、自分が生きやすくなるならそれは良いことだなと。
私が子育てで大事にしてきたのは、子どもが一生懸命話すときはどんなことでも一旦受け止めよう。ということです。
いっぱい喋る時は吐き出したい時だから、そういう時は時間を作って聞くようにしていました。
あと、本を読むとか一緒の時間を作ること。
伸夫は科学の友など好きでよく買っていましたが、何でもいいので一緒に過ごすことが大事だと思います。
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